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【追悼】元トラベルジャーナル専務取締役・高梨洋一郎氏を偲ぶ

元トラベルジャーナル専務取締役で、日本エコツーリズム協会の設立に携わった高梨洋一郎(たかなし よういちろう)氏が2026年9月2日に逝去されました。

トラベルボイス編集部では、旅行業界の専門誌「週刊トラベルジャーナル」の元編集長・宮内順氏に、追悼文の執筆をお願いしました。以下に全文を原文のまま掲載します。

編集部一同、高梨氏のご冥福をお祈り申し上げます。


高梨さんを追悼して ―さよなら高梨さん、さよなら私たちの時代―

「週刊トラベルジャーナル」元編集長
宮内 順

高梨洋一郎さんが逝った。旅行ジャーナリズムを実践した先駆者であり、海外旅行の分野では、渡航自由化からマスツーリズムへの発展に寄り添い、編集長としてトラベルジャーナル紙上で多くの珠玉の記事を残した。旅行業界に高梨ファンは多く、その温かい人柄とともに、産業のあり方への鋭い洞察力に共感した人も多かった。

高梨さんとの出会いは半世紀前の1970年代にさかのぼる。トラベルジャーナル(当時は森谷トラベルエンタプライズ)に入社したときの編集長が高梨さんであり、海外旅行の揺籃期で旅行者数もようやく200万人に達しようかという、市場の拡大に手ごたえを感じながらも、夜明け前の妙に高揚した時期であった。

1970年代はパッケージツアーが市民権を得た時代である。パッケージツアーにより、旅行を商品として造成し販売するという新しい流通が、それまでの団体旅行の請負から、店舗でのツアー販売へと旅行会社の業態を大きく変えたが、そこで存在感を発揮したのがトラベルジャーナルである。高梨編集長のもと、パッケージツアーを記事の中核に据え、徹底的にニュースにこだわった編集方針が多くの読者に支持され、旅行業界のオピニオンリーダーとしての地位を不動のものにした。ホールセーラーや政府観光局、航空会社などの広告が紙面を飾り、増加するページに忙殺されたことが昨日のことのように思い出される。

旅行を商品として販売する手法は、1980年代に入り、メディア販売として開花する。アウトセールスの低迷により店舗販売へと移行を急いだ旅行会社は、新聞や雑誌でツアーを募集するメディア販売の洗礼を浴びることになる。とりわけ新聞広告の影響は大きく、1980年代の旅行ブームの牽引役として華々しい成果をあげ、海外旅行者1000万人(テンミリオン)市場への扉を開いた。マスツーリズム時代の到来に、高梨編集長を囲んで、麹町の居酒屋で旅行産業の未来、そして旅行ジャーナリズムの役割など話に熱中するあまり最終電車を逃し、新宿のカプセルホテルにやっかいになることもしばしばであった。

今から思えば、1980年代は旅行業界のみならず、トラベルジャーナルにとっても順風満帆の「古きよき時代」であった。故森谷哲也社長(当時)の片腕として世界旅行博の開催に尽力し、ツアーオブザイヤーの立ち上げ、観光産業研究会の主宰など、編集者の枠を超えた高梨さんの八面六臂の活躍には、目を見張るものがあった。しかし、高度経済成長が終焉する1990年代は、海外旅行者の伸び悩みや航空産業の低迷に加え、世界的には日本の観光市場への各国の関心の低下が暗い影を落とし、旅行業界は急成長から安定成長へと急旋回を遂げることになる。

その一方で1980年代の後半以降、パーソナルコンピュータの発展が著しく、パソコン通信の登場がネットワーク時代の到来を予感させた。トラベルジャーナル編集部ではいち早くパソコンを採用し、原稿用紙の廃止を図ったが、高梨さんと二人三脚で進めたOA化の試みに記者たちもすぐに順応、逆にパソコンがなければ仕事にならないほど、編集部の日常の風景となった。まだ高価であったパソコンを、編集の現場に一気に導入したところにも高梨さんはじめとした当時のトラベルジャーナルの先進性がうかがわれる。

パソコンの定着は、国際会議のデイリーペーパーなど即時性が要求される媒体の編集に大いに役立つことになる。データ通信を活用して印刷工程を短縮するのは今日では常識とはいえ、インターネットが普及する以前はそう簡単ではなかった。高梨さんと協力し、パソコン通信のホストを開設、入力されたデータを通信で送り、パソコンでレイアウトし出力するという、1980年代の後半から米国で広がったデスクトップパブリッシングの体制を整えたが、データをどのようにすれば効率よくパソコン通信で送れるか、侃々諤々の議論をしたのもインターネット前夜ならではの思い出である。

1994年10月、高梨さんと語らって、ツーリズムワールドを設立した。日本でもインターネットが1990年代半ばになって急速に発展し、ネットワーク時代への予兆がさらに高まっていることから、情報化社会の旅行メディアを立ち上げるべく、新会社設立に踏み切った。トラベルジャーナルの重役という立場からの転身だけに、さまざまな軋轢や葛藤もあったと思われるが、新しい時代への期待を、青年のような熱いまなざしで語る高梨さんに共感者も多く、神田・淡路町の事務所には、旅行業界の関係者にとどまらず、多くの人が訪れ、彼が望んでやまなかった「旅の梁山泊」がささやかながらも実現したのは、人徳のなせる業であった。

ツーリズムワールドでは観光関係のマーケティング事業を手掛ける一方で、米国のネットワーク会社のサーバーを借り、オンライントラベルマガジン「旅コム」の発刊に踏み切った。日本と比べ、インターネット環境が格段に進んだ米国のレンタルサーバを利用するという発想は当時としては斬新であり、IT関係の雑誌に取り上げられるなど大いに話題となった。「旅コム」では、観光のニュースをリアルタイムで提供するとともに、高梨さんの豊富な人脈から多数の賛同者を得て、旅に関するさまざまな特集記事を掲載した。

なかでも高梨さんが力を入れたのが、エコツーリズムである。1990年代と言えば、世界的な環境問題への関心の高まりから、日本でもエコツーリズムに注目が集まってはいたものの、実践活動という点で出遅れが目立っていた。旅行業界でも、自然観察をテーマとしたエコツアーがようやく企画されるようになってはいたが、そうした黎明期に正面からエコツーリズムに取り組んだ「旅コム」の姿勢は高く評価され、多くのエコツーリズムの関係者が執筆者として名を連ねた。観光を生涯のテーマとした高梨さんが、ライフワークとしてエコツーリズムに取り組む契機となったのが、「旅コム」を通しての出会いであった。

1998年エコツーリズム推進協議会が発足する。設立への準備に向けてツーリズムワールドに新進気鋭のエコツーリズム関係者が集まり、熱い議論を交わすのが、当時の日課であった。淡路町の小さな事務所で、エコツーリズムの灯がともされ、やがて観光産業のみならず、社会全体の大きなうねりに広がっていく。それはほんの小さな一歩であったが、間違いなく次の時代を作る大きな前進であった。エコツーリズム推進協議会は、2002年日本エコツーリズム協会に改名し、名実ともに日本のエコツーリズムを代表する組織に成長する。

この20年、高梨さんは精魂を込めて、エコツーリズムの理念を多くの地域で語ってきた。自然環境と対峙するのではなく、共存することの大切さを繰り返し語り、地域の人たちとともに、再生への糸口を探ってきた。そして、そこには高梨さんの人を大事にし、人を愛するという姿勢が一貫してつらぬかれていた。

ここ数年、私たちと同時代の人たちの訃報が相次いでいるが、産業の礎を築いた先人の労苦の上に今日がある。渡航自由化からマスツーリズム、そしてインターネット時代へと、観光を担う世代が次々とバトンタッチされていることに産業の成熟を感じる一方で、旅行業の明日に向かってひたすら走った私たちの時代が無性に懐かしい。先人たちの逝去は、海外旅行の成長期に生きた私たちの時代の終焉を物語るかのようだ。

さよなら高梨さん、さよなら私たちの時代。死の床からの高梨さんの最後のメッセージは、彼を支えた人たちへの変わらぬ感謝の言葉であった。