こんにちは。日本交通公社の山田雄一です。
2026年3月末に閣議決定された観光立国推進基本計画(第5次)では、新たに「宿泊業が創出した付加価値額」が目標値として設定されました。その目標値は6.8兆円。2024年時点の4.3兆円比で158%であり、達成するには年率8%程度の成長が必要となります。名目経済成長率が年率3〜4%程度に留まっている日本経済にとっては、十分に野心的な数値と言えるでしょう。今回は、この「宿泊業の付加価値化」について考察します。
※写真:付加価値は、IPや資金を投下した主体に分配される(宮古島東急ホテルで筆者撮影)
新たな目標値が設定された背景には、いわゆるオーバーツーリズム問題によって量から質への流れが強化されたことに加え、観光が隆盛しても、産業別に見て、宿泊や飲食業の賃金水準が最低ランクにとどまり続けていることに対する課題感があったものと考えられます。
今さら指摘するまでもなく、日本は深刻な人口減少社会となっています。地方創生が叫ばれるなか、観光は定住人口を交流人口で補完するという政策目的が付与されていますが、観光経済を回すためには、地域に人手が必要です。一方で、地域において最も希少な資源は「人」となっています。この矛盾を解消するには、少数の人手で、多くの付加価値を上げることが求められますが、賃金水準が最低ランクのままでは、その実現は極めて困難です。
少し前であれば、海外から働き手を連れてくることも出来ましたが、大きく進んだ円安によって、それも難しくなってきていることを踏まえると、生産性が高い=給与水準が高い産業に切り替えていくことは急務でしょう。
付加価値に対する思い込み
ただ、ここで注意が必要なのは、製造業発想で付加価値を考えてはいないか?という点です。
日本経済は、自動車や電機といった製造業の成功によって経済成長を果たした経緯もあり、製造業的なスキームで物事を考えるクセがついています。
例えば、価格です。製造業社会において「価格」は、原価の積み上げによって規定されていました。原材料を仕入れ、従業員に給与を支払い、企業として「適正」な利益を乗せたものが価格でした。そのため、製造工程を合理化し、良い部材を使いながら、かつ効率化できた企業が市場競争力を持っていきました。「良いものを、より安く」提供できた企業が勝者であったわけです。製品を企画する人、つくる人、販売する人の合作であり、企業の収益拡大は、そのまま人件費へ還元されやすい構造にありました。
一方、現在の経済社会では、価格は消費者の認知によって形成されます。同じモノやコトであっても、価値を感じる人は高額でも購入するし、そうでない人は出来るだけ安くなければ買いません。いわゆる「転売ヤー」が問題となりますが、そもそも、転売市場が成立するのは、供給側が原価積み上げによって1万円を「適正価格」と設定しても、一部の消費者には10万円でも価値があるためです。現在では、こうした消費者の心理をふまえ、購入タイミングや属性などによって、価格を変動させるダイナミック・プライシングが広く活用されています。
こうした構造においては、顧客が認識する価値を高めることで、同じモノ・コトを出来るだけ高い価格で売ることが出来る企業が勝者となります。
端的に言えば、製造業社会では安くすることが勝因でしたが、現在のサービス経済社会では、高い価格を出しても買いたいと思わせることが勝因になるということです。
宿泊業は、その典型です。
単に「泊まれれば良い」と考える人々は、一定の要件(清潔さや安全性など)が満たされるのであれば、出来るだけ安い施設を選択します。一方、特定の施設(ブランド)に思い入れのある人々は、少々の価格差なら気にせず、自身の好きな施設を選択します。「推し」に対する支出は厭わないからです。
結果として、前者のセグメントのみでしか選好されない施設は100円、200円という単位での価格競争を余儀なくされますが、後者のセグメントから支持される施設は、価格レンジを広く設定することが可能となります。
どちらの付加価値が高くなるかは自明でしょう。
誰が顧客の「思い入れ」を創っているのか
では、付加価値向上に資する顧客の「思い入れ」は、誰が深めているのでしょうか。
「もちろん、従業員のおもてなしだろう」という意見も想定されますが、残念ながら、それだけではありません。「思い入れ」は、実際に経験する前に抱く事前期待と密接に関係したものだからです。
事前期待とは、「地のものを使った夕食を食べたい」「露天風呂からの絶景を楽しみたい」「落ち着きのある客室で家族と過ごしたい」など様々ですが、来訪前からこうした期待が明確であるほど、思い入れは深まり、満足度や評価も高まります。
すなわち、何が出来るのかを事前にしっかりと顧客に伝え、顧客に「これをしたい」と強く思わせることが、その施設の利用意向を高め、付加価値向上へ繋がるのです。
これはマーケティング、より端的に言えばブランディング領域の取り組みとなります。
これは、よりブランディング領域の取り組みであり現場レベルではなく、経営レベルの戦略が重要になります。
さらに、留意が必要なのは、宿泊事業は、四半世紀ほど前に大きくビジネスモデルが変化したということです。それは、所有・経営・運営の分離です。
宿泊事業はかつて、建物の所有者が経営・運営を一体的に行っていましたが、現在では、不動産会社(またはファンド)が建物を所有し、宿泊の経営に通じた事業者(ホテル・チェーン)が戦略をたて、現場オペレーション会社に戦術レベルとなる日々の運営を任せるという三層構造が一般的となっています。
この三層のうち「思い入れ」に強く影響するのが、戦略を担うホテル・チェーン、次に、空間や設備に資本投下する不動産会社です。現場は、設備を使って戦略を着実に展開することを委託されているに過ぎません。
こうしたビジネスモデルの変化に伴い、国外の多くのホテル・チェーンは自ら不動産を持つことを止め、経営力強化に取り組むことで、宿泊事業を展開したい不動産会社から支持を受け、急成長することになります。
宿泊業の付加価値はIPが生み出す
現在、ホテル・チェーンが付加価値を高めることが出来るのは、顧客の思い入れを深める能力があるからです。それは、彼らが宿泊サービス領域においてIP(知的財産/Intellectual Property)を保有することに起因します。
具体的にはダイナミック・プライシングを利用したレベニュー・マネジメント、収益性の高い顧客を囲い込むCRM、顧客の志向を適切に把握するマーケティング力などとなりますが、最大の強みは「名前を聞くだけで、サービス内容が想起できる」ことにあります。
例えば、「リッツカールトン」と「コートヤード・バイ・マリオット」は、いずれもマリオットが運営するホテルですが、両者を混在する人はいません。星野リゾートが運営する「星のや」と「界」、「OMO」の滞在スタイルの違いも明確です。
所有者となる(投資家となる)不動産会社は、自社の物件の付加価値を最大に高めてくれることが期待できるホテル・チェーンと契約し、彼らのブランドが最大限機能するように設備投資を行います。
ホテル・チェーンはIPを提供し、不動産会社は資金を提供するわけです。両者の契約は、多種多様ではありますが、事業で生じた利益の多く、特に上振れした利益は両者が分かち合うことになります。一方、運営を委託される会社はリスク負担も低い代わりに、リターンも低いことが一般的です。
宿泊業の付加価値向上≠従業員の給与アップ
こうしたことから、宿泊業の付加価値が高まったとしても、そこに働く人達の給与上昇に「必ずしも」直接的には繋がりません。宿泊業の付加価値向上はIPと資本投下によるものであり、労働提供による影響は限定されるからです。
もちろん、いわゆる高級ホテルでは、語学を含め相応の接遇力をもった人材が求められます。よって、普通のホテルで就労するよりも給与は高くなることが期待できますが、それはより優秀な人材が、より高い給与を得ることが出来るということに過ぎません。
また、宿泊業の日々の平均単価(ADR/Average Daily Rate)は変動しますが、それは、需給関係を展望したダイナミック・プライシングによるものであり、原価となる人件費が変動するためではありません。
このように、現在の経営モデルでは、宿泊業の付加価値と一般従業員給与の相関は低いのです。
ザル経済化の懸念
こうした構造を踏まえると、宿泊消費額を増やし、宿泊業の付加価値を高めたとしても、地域経済の振興に繋がらない可能性が高いことが解るでしょう。
消費によって付加価値が生じたとしても、それは、ホテル・チェーンや、不動産会社に配分され、現地で働く人々の所得への配分は限定されてしまうからです。これらが国外資本であれば、国外に流出することになります。日本が国費を使って、観光振興を行った効果が国外に漏出するという事態は、たちの悪いジョークです。政策的にも大きな課題と言えるでしょう。
観光客数や消費額が増えたとしても、IPまたは資金を投下したところに付加価値は分配されていくという実態を認識したうえで、取り組みを展開することが必要でしょう。
山田 雄一(やまだ ゆういち)
公益財団法人日本交通公社 理事/観光研究部長/旅の図書館長 主席研究員/博士(社会工学)。建設業界勤務を経て、同財団研究員に就任。その後、観光庁や省庁などの公職・委員、複数大学における不動産・観光関連学部などでの職務を多数歴任。著者や論文、講演多数。現在は「地域ブランディング」を専門領域に調査研究に取り組んでいる。