世界経済や国際政治を巡る不確実性が高まる中でも、旅行・観光需要は底堅さを維持している。オックスフォード・エコノミクスの観光分析責任者であるマイケル・シュリー氏(写真)は、アジア太平洋(APAC)地域を中心とした将来見通しを発表した。「真のリスクは不確実性そのものではなく、データの読み違いにある」と前置きしたうえで、「インフレや地政学的緊張、家計への圧力が存在するにもかかわらず、消費者は依然として旅行を優先している」と述べた。
この予測発表は、旅行流通の世界大手・HBXグループの国際カンファレンス「MarketHub」でおこなわれたもの。同氏によると、今後5年から10年かけて、世界の旅行需要は国内・国際ともに拡大を続ける見通しだ。
特に、国境を超える国際旅行の成長は顕著で、2035年までに2025年対比で60%以上の増加が見込まれている。2030年には国際旅行者による延べ宿泊数が20億泊を超え、2035年には24億泊に達するという。旅行者による現地消費額も拡大し、2030年には2.5兆ドル超(約388兆円)、2035年には3兆ドル(約465兆円)を超える水準が予測されている。
国際旅行が牽引する世界需要、国内旅行は量で最大を維持
シュリー氏は、成長率の観点では国際旅行が国内旅行を上回る一方で、旅行全体のボリュームでは国内旅行が引き続き最大のセグメントであり続ける点を強調。国内旅行は今後も全体の約3分の2を占める見通しだが、所得水準の向上や航空ネットワークの拡充を背景に、国境を越えた移動への志向は長期的に強まっている。
こうした世界的な傾向の中で、APAC地域は特に高い成長が期待されている地域だ。2035年までにAPACのインバウンド観光は2025年対比で75%増加する見通しで、中東を除けば世界で最も高い成長率となる。経済成長や人口動態の変化に加え、新たな観光地の開発や体験型コンテンツの拡充が、地域全体の魅力を押し上げている。
日本と東南アジアが存在感、回復局面の違いが成長率に反映
APAC域内の主要目的地を見ると、2025年時点で国際(インバウンド)宿泊者数が最も多いのは日本。そして、タイ、中国、マレーシア、ベトナムが続く。今後10年間でこれらの国・地域はいずれも成長が見込まれるが、そのスピードには差がある。
タイやフィリピンでは、これまでの回復が相対的に緩やかだったことから、今後は反動的に高い成長率が見込まれている。インドネシアやカンボジアでは、旅行者にとっての価格競争力や、新規性のある体験価値が需要を押し上げる要因となる。シンガポールについては、域内外を結ぶハブとしての高い接続性が引き続き強みとなる。
日本は近年、急速なインバウンドの回復を遂げてきたが、今後は成長ペースがやや落ち着くとみられている。ただし、成熟市場でありながらも堅調な増加が続く点が特徴だ。中国についても、アウトバウンド市場としてだけでなく、ビザ緩和などを通じてインバウンド目的地としての魅力が高まり、安定した成長が期待されている。
アジア太平洋地域へのインバウンド客数の増加予測:2025年~2035年(オックスフォード・エコノミクスの観光分析資料より)
域内移動が支えるAPAC、アウトバウンド市場としての拡大
APACは目的地としてだけでなく、世界最大級のアウトバウンド市場としても存在感を高めている。2010年代に世界のアウトバウンド旅行に占めるシェアを拡大し、パンデミック後も再びその比率を高めつつある。
シュリー氏は、その背景について経済発展に伴う所得向上と、新たに旅行が可能となる世帯の増加と説明。今後10年間で新たに旅行に出かけると考えられる世帯数は、中国とインドが突出して多く、インドネシアやベトナムも上位に位置する。これらの世帯は、国内旅行だけでなく、域内・域外への海外旅行の拡大を支える基盤となる。
特に重要なポイントとして、シュリー氏は域内移動の比重をあげた。2025年時点でAPAC発の国際旅行の78%がAPAC域内向けであり、この比率は2035年でも75%と高水準を維持する見通し。今後10年間にAPACのインバウンド増加分の約8割は、域内からの旅行者によってもたらされると予測し、域内市場の循環が成長の原動力となるとの見方を示した。
アジア太平洋地域域内のアウトバウンド旅行者数の推移予測(オックスフォード・エコノミクスの観光分析資料より)
不確実性と向き合う観光産業、価値志向とAI活用が鍵
一方で、先行きにはリスクも存在する。米国の通商政策を巡る不透明感や地政学的緊張は、世界経済の不確実性を高めてきた。ただしシュリー氏は、当初懸念されたほど深刻な事態は回避されており、世界経済は減速しつつも比較的堅調に推移すると分析する。
こうした環境下でも、消費者は旅行を支出の優先項目として位置づけている。レジャー旅行支出が消費全体に占める割合は、2025年にパンデミック前の水準へ回復する見通しだ。旅行者の意識調査では、新しい目的地への関心が高まる一方で、価格やコストパフォーマンスへの意識も強いことが示されている。
また、価値志向と並行して、一定のラグジュアリー需要も存在する。重要なのは価格の高低そのものではなく、「支払った対価に見合う体験が得られるか」という点だとシュリー氏は指摘する。
加えて、旅行計画におけるテクノロジー、特にAIの役割は急速に拡大している。国際旅行者の多くがデジタルツールを活用し、AIチャットボットやバーチャルアシスタントの利用は急増している。シュリー氏は「AIはOTA登場以来の大きな変化であり、旅行計画のパーソナライズを加速させている」と述べ、今後の成長を展望した。
※ドル円換算は1ドル155円でトラベルボイス編集部が算出
取材・文: 鶴本浩司