生成AIの進化が、旅行・ホテル業界にも確実に影響を及ぼし始めています。ただし、その変化は決して一方向ではありません。「生成AIが旅行のすべてを変える」といった楽観的な見方がある一方で、現場では冷静な観測と慎重な検討が続いています。
とりわけ世界のホテル業界では、生成AIは、いまだ"万能の解決策"ではなく、流通、会員、顧客体験、オペレーションのどこに、どの深さで組み込むのかが問われている段階です。今回のコラムでは、IHG(インターコンチネンタル・ホテルズ・グループ)の人事異動、旅行流通側のAI活用、そしてヒルトン経営陣の発言を手がかりに、生成AIがホテル業界に与える影響を整理します。
ラグジュアリーと流通、それぞれ異なる生成AIの立ち位置
まず注目したいのは、ラグジュアリー領域における生成AIの位置付けです。近年の高級ホテルやリゾートでは、「デジタルデトックス」や「スマートフォンから距離を置く体験」が価値として強調される傾向があります。
生成AIが持つ即時性や合理性は、こうした"非効率を楽しむ"体験とは必ずしも相性が良いとは言えません。そのため、少なくとも当面は、生成AIがゲスト対応の前面に立つケースは限定的でしょう。
一方で、嗜好分析、事前準備、スタッフ支援など、ゲストの目に触れない領域でAIが活用されています。ラグジュアリー領域では、「人間らしいサービスを保つために、裏側でAIを徹底的に使う」という設計が主流になりそうです。
対照的に、旅行計画や予約の段階では、生成AIはすでに"前提条件"になりつつあります。
欧州最大級の観光グループTUIとAI旅行プラットフォーム「Mindtrip」の提携は、その一例です。ユーザーが自然言語で希望を入力すると、AIが旅程を生成し、その内容をそのままパッケージ商品として直接予約できる仕組みを構築しました。
従来、AIやコンテンツ型サービスは検討段階に強い一方、実際の予約は別導線に委ねられてきました。TUIはこの断絶を解消し、AI生成の旅程をEUが定める「EUパッケージ旅行指令」に準拠した商品として成立させています。AIによる柔軟性と、パッケージ旅行の責任性を両立させる設計です。
この「考える」と「買う」を分断しない構造は、生成AIが旅行流通のあり方そのものを問い直し始めていることを示唆しています。
コンテンツ自動化への期待と、それを相対化する旅行者の視点
生成AIを巡る議論では、「コンテンツの自動生成」に注目が集まりがちですが、旅行分野ではむしろ慎重な姿勢が求められています。
エクスペディア・グループの調査によれば、旅行者が重視するのは動画の美しさ以上に、「透明性」「真正性」「ストーリー構造」です。これらを完全自動生成のコンテンツで提供すると、場合によっては信頼を損なうリスクもあります。
旅行者がAIに期待しているのは、表現そのものよりも、価格、条件、旅程といった判断を支える実務的な補助機能です。この点でも、生成AIは主役ではなく、人の意思決定を支える存在として位置付けられています。
業界内外で、2026年を生成AIの分岐点と見る声が増えています。2023~2024年が実証実験、2025年が部分導入の年だとすれば、2026年は生成AIを誰が、どの立場で統括するのかが問われるフェーズに入ると考えられています。
IHGとヒルトン、大手2社が示す対照的なアプローチ
生成AIは、もはやIT部門だけのテーマではありません。流通、マーケティング、顧客体験、オペレーションを横断する存在となり、経営判断に直接関わり始めています。ここで重要になるのが、人事と組織設計です。
この文脈で注目されるのが、IHGがウェイ・マンフレディ氏を、AI主導のイノベーションを加速させる役割に任命した動きです。
マンフレディ氏は、テクノロジーおよびデータ領域で豊富な経験を持つ経営幹部で、Google Cloud、Visa、マクドナルドなどでのキャリアを経てIHGに参画しました。今回、IHGは同氏を「Senior Vice President of AI and Architecture」に任命し、生成AI戦略を全社横断で推進する体制を整えました。
今回の人事の意味は、単なるテクノロジー部門の強化ではありません。IHGは、生成AIを「技術の問題」から「事業変革の核心」へと位置付けを引き上げ、顧客体験、流通、オペレーションの各領域に統合的に組み込んでいくことにあります。
IHGはすでに、会員アプリ「IHG One Rewards」内で生成AIを活用した旅行計画支援ツールを導入しています。ユーザーが自然言語で希望を入力すると、AIが旅程を提案し、そのままIHG系列ホテルの予約につなげる仕組みです。
しかし、今回の人事が示唆するのは、この機能を単発の「便利ツール」にとどめない戦略です。IHGは、生成AIを会員プログラム全体の再設計、ブランド横断での顧客体験の最適化、さらには流通チャネルの再構築へと拡張していく意図を持っていると考えられます。
マンフレディ氏のような経営幹部がAI戦略を統括するという構図は、生成AIがIT部門の管轄から経営戦略の中核へと移行していることを象徴しています。
興味深いのが、ヒルトン・ワールドワイド・ホールディングスのクリストファー・ナセッタ最高経営責任者(CEO)の発言です。同氏は2025年第3四半期の決算説明会で、生成AIによる流通環境の変化を「脅威」ではなく、「機会」と前向きに評価しました。
ナセッタ氏は、AI活用を「業務プロセスの効率化」、「流通とマーケティング」、「顧客体験の向上」の三つに整理しました。特に流通面では、「在庫のコントロール権と顧客体験はヒルトンが握っている。複数の大規模言語モデル(LLM)が競争する環境は、むしろ非常に良いことだ」と強調しています。
優れた商品と顧客ロイヤルティがあれば、AI時代にはむしろ新たな流通経路が増えるという見方です。この発言は、OTAやAI企業が台頭する中でも、ホテル側が主体性を失っていないことを示しています。
IHGが組織体制の再編でAIを経営の中核に据えたのに対し、ヒルトンは既存の強み「在庫管理と顧客体験」を軸にAI時代の流通を再定義しようとしています。アプローチは異なりますが、いずれも生成AIを「外部からの脅威」ではなく、「自社の競争優位を強化する手段」として捉えている点は共通しています。
業界はまだAIとの距離感を定める「途上」にある
生成AIが世界のホテルにどのような影響を与えるのか。その最終的な姿は、まだ誰にも分かりません。
ラグジュアリーでは"見えないAI"が主流となり、旅行流通ではAI起点の再設計が進む。ホテル大手は在庫と顧客体験を軸に対応を模索しています。IHGの人事、TUIの取り組み、ヒルトン経営陣の発言はいずれも、業界がまだ答えを探している途中であることを示しています。
結論を急ぐよりも、今後、数年で世界大手ホテルの会員プログラムやサービス設計、そして旅行流通の構造がどう変化していくのかを丁寧に追い続けることが重要でしょう。
生成AIは、旅行業界の勝者を即座に決める存在ではありません。それは、業界の競争軸と価値観を静かに問い直す存在なのです。
山川清弘(やまかわ きよひろ)
東洋経済新報社編集委員。早稲田大学政治経済学部卒業。東洋経済で記者としてエンタテインメント、放送、銀行、旅行・ホテルなどを担当。「会社四季報」副編集長などを経て、現在は「会社四季報オンライン」編集部。著書に「1泊10万円でも泊まりたい ラグジュアリーホテル 至高の非日常」(東洋経済)、「ホテル御三家」(幻冬舎新書)など。