現代の富裕層が宿泊施設に求めるラグジュアリー体験とは、どういったものか? 宮城県鎌先温泉で室町時代から続く老舗旅館「時音の宿 湯主一條」の20代目当主、一條一平氏は「お客様との会話力、そこからくみ取る力」がホスピタリティ産業の真髄であり、選ばれるための差別化につながると説く。
赤字経営だった家業を継ぎ、個人客をターゲットにした業態へと転換。2025年に全室スイートの「The Yukawa 一條支店」をオープンするまでの歩みと、同氏が目指す宿泊体験を聞いた。
室町時代から続く老舗が挑む、全室スイートの新展開
「時音の宿 湯主一條」を経営する一條旅館の当主は代々、「一條一平」の名前を襲名する。その20代目である現在の一條一平氏は、2025年に同社にとって2軒目となる全室スイートの「The Yukawa 一條支店(Yukawa)」をオープンし、日本ならではのラグジュアリー体験を届けることに挑戦している。2026年1月には、創業100年を超える長寿企業の中から優れた企業を表彰する「100年企業顕彰」で、「中小企業庁長官賞」を受賞するなど、いま、その手腕が注目される経営者だ。
開業から1年を迎えたYukawaは、2026年7月に国内の高級旅館やホテルが加盟する「The Ryokan Collection(ザ・旅館コレクション)」に参画し、米国やアジア市場など、海外富裕層向けのアピール強化にも乗り出した。現在は、日本国内の東北や首都圏の経営者や医師、高年収のパワーカップルなどが主な顧客層で、海外客は全体の8%にとどまる。その内訳では、台湾が最も多く、次いで香港、米国、シンガポールなどだ。
一條氏は「インバウンド旅行者も来てくれたらいいな、という程度」と控えめだが、英語、中国語、韓国語でゲストに応対できる社員はすでに複数人を配置している。今後、海外向けの情報発信やPR活動にも力を入れていく方針だ。
常識を疑い、外部の視点から学ぶ
ここまでの道のりは決して平たんではなかった。先代の時代は高度成長期で、部屋を作れば湯治客で埋まったが、バブル崩壊後は経営が厳しい時期もあった。1999年、当時、首都圏の高級ホテルに勤務していた一條氏も家業に加わった。
受け継いだものを守りつつ、新しい価値を作り出す上で役立ったのは「外から来た人の視点」(一條氏)だ。同氏の場合、公私のパートナーである女将の存在が大きかったという。「彼女は旅館にも鎌先にも、縁もゆかりもないからこそ、見逃せない発想がたくさんあった」と振り返る。
その一つが、2008年に実施した湯主一條のリノベーションだ。相部屋中心の湯治場だった本館を、完全個室の料亭に改装した。客室数は71室から24室へと減らし、露天風呂付きのスイートルームを新設。各部屋の畳には床暖房を導入した。個人客向けのサービスに舵を切ったおかげでコロナ禍でも営業は順調だった。一條氏が経営を継いでから現在まで、毎年、増収増益を維持している。
「業界の常識も、一度、疑ってみるべき」と一條氏は言う。一例として、「早い段階で日帰り入浴をやめた。 数百円の日帰り入浴客が、数万円を払う宿泊客より先に風呂に入るのはおかしいと感じた。日帰り客は、施設の使い方も雑になりがちで、清掃や備品補充などの手間はむしろ多い。昼間の時間帯に、スタッフが休憩しづらくなるのも問題だった」と指摘する。
Yukawaは、もともと2018年のグランドオープンを目指していたが、コロナ禍などが影響し、延期を余儀なくされた。その後の建築費用などの上昇で投資額は当初見積もりの倍以上に膨らみ、「客単価も当初の5万円から倍にする必要に迫られた。そこで目をつけたのが、湯主一條で人気のスイート客室。客単価が10万円以上、稼働率も年間8割を超えていた」と明かす。
「Yukawaのコンセプトは原点回帰、テーマは御用邸」と一條氏は説明する。これまでも長い歴史の中で増改築はあったが、今回は湯主一條の敷地を離れて、新しい温泉を掘りだすところから始めた。「私の代では初めての試み。初代の気持ち、原点に立ち返ってお客様をお迎えしようという思いだ」。客室は全11室とし、すべてが露天風呂とテラス完備のスイートという贅沢な仕様だ。連泊の滞在客が多くなることを想定し、2泊目は湯主一條の料亭で夕食をとることもできる。
勝つためではなく「負けない経営」
国内外から訪れる宿泊客に対し、非日常の時間を満喫してもらうために、どんな工夫をしているのか。
一條氏は、まず、そこでしか味わえないものを提供することを挙げる。 自社の資源である宿の歴史や伝統などについて社員自身が深く理解し、さらにそれを磨き上げる。調理や清掃は、これを形にして届ける仕事だが、接客スタッフの場合は、ゲストとの会話や立ち居振る舞いを通じて、その魅力を届けることになる。
「大切にしている基本は、お客様との会話、その中から相手のニーズをくみ取る力、質問力だ。特に、富裕層は人とのふれあい、コミュニケーションをとても重視されていると感じる。海外からのお客様になると、接客スタッフや料理長はもちろん、近くでたまたま出会った農作業をする人とも話をしたがる」と一條氏。セルフサービスのビュッフェや、資料を読むだけでは生まれない人と人とのリアルな会話からこそ、豊かな時間が生まれるのではないかと考えている。
会話からゲストのニーズをくみ取る力を育てるためには、「自分が困ったり、嬉しいと感じたりする体験が欠かせない。海外旅行で言葉が通じなかったり、恥をかいたり、あるいは助けてもらったり。その中で磨かれていくものだと思う」と同氏。自身も可能な限り、話題の旅先や宿泊施設に足を運ぶ。
経営者としての葛藤もある。「女将は常にお客様目線で、どうやったら喜んでもらえるかを考えているが、私はどうしてもマネジメント目線になってしまう」。たとえば、深夜の食事の問い合わせ、湯主一條の宿泊客が散歩がてらYukawaに来た時の対応など。タイミングによって状況は異なるため、一律のルールで縛るのではなく、女将や部門長に現場での判断を任せて、費用が発生した場合は、自身に請求が届く流れにしている。
「お客様にも会社にも従業員にもメリットがあるなら問題ないよね、と考えるようになった」。これを一條氏は「勝つための経営ではなく、負けない経営」と呼ぶ。
インタビューはWiT Japan 2026の会場でおこなった。写真は登壇時の一條氏
マニュアル化が難しいからこそ社員教育に投資
現在、2つの宿泊施設の従業員は、一條氏と女将を除いて73人。このうち52人が正社員だ。「客室数に対して少し多いが、Yukawaの計画があったので、8年前から中途よりも新卒を中心に採用する方針に転換した」という。新卒にこだわる理由は、「宿に合った個性を持つスタッフを採用し、育てられる。それを連綿とつないでいく方がブレない。我々のような旅館では、あまりに色々なケースがあって、マニュアル化するのが難しいからだ」
結果的に、「先輩をちゃんと育てること、人間性を鍛えることが大切になる」とも話す。女将との一対一での食事会、コミュニケーションやホスピタリティ産業に特化した研修、チームビルディングまで、さまざまな形で教育に投資している。
マニュアルはないが、顧客に関するデータベースは作成し、選んだ飲み物、利き手、結婚記念日など気づいたことはすべて入力している。とはいえ、過去の利用履歴を正確に記憶していることが、かえって相手を居心地悪くするケースもあるのが接客業の複雑さだ。どんなに事前に情報を集めても、「いざゲストが到着すると想定外のことがあるので、すばやい機転や配慮が欠かせない」。ここでもカギになるのは会話力という。
取材の最後に一條氏は、「人とのコミュニケーションが魅力の宿を作りたい。それが、ゲストに『また来たい』と思ってもらい、選ばれることにつながる」と力を込めた。