なぜ今「一棟貸し」宿泊施設が選ばれるのか? 観光市場を動かす「距離感」と「価値観」の変化を考察【コラム】

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国学院大学観光まちづくり学部教授の井門(いかど)です。

私が大学で学生と関わる中で、近年よく聞く言葉が「価値観」と「距離感」です。「価値観が近いから友達でいられる」「距離感が近すぎると居心地がよくない」というように、人間関係を表す文脈で使われます。

Googleトレンドで検索キーワードの動向をみても、大学で勤務するようになった2011年と比べて検索数が「価値観」は2.3倍、「距離感」は4.8倍に伸びています。学生に限らず、それだけ気にする人たちが増えていることがうかがえます。その間には、コロナ禍があり、パーソナルスペースがより強く意識されるようになったという事情や、物心ついた頃からスマートフォンが身近にあったスマホネイティブ世代が増え、狭い画面の世界で日常を過ごす若者が増加したことが要因として推測できます。

このキーワードは、観光にも影響を及ぼし始めています。今回は、価値観や距離感に対する意識の変化が、観光での行動や需要、市場にどのような影響を与えているのか、具体的な事例を交えて考察します。

※写真:1日1組の宿「ニュー檸檬樹」(温泉津温泉)の室内(筆者撮影)

観光行動に影響するパーソナルスペースの広がり

距離感は、パーソナルスペースと言い換えることができます。パーソナルスペースは年齢によって異なり、子どもや高齢者は狭く(他者との距離感が近く)、10代後半から広くなり(他者と距離感を保つようになり)、50代頃から再び狭くなる傾向があります。

その広さは、相手との関係性、年齢、性別、文化、置かれた状況などによって変わるとされています。また、国によっても快適と感じられる距離に違いがみられます。社会構想デザイン機構が紹介する42カ国・約9000人を対象とした国際比較調査や、マクロミルがまとめた各国の傾向によると、南欧・ラテンアメリカ・中東といった温暖な気候の国々では比較的狭く、アルゼンチンやブラジル、インドなどでは身体を密着させて会話をすることが日常的です。一方で、ルーマニアやハンガリーはアルゼンチンの2倍の広さのパーソナルスペースが必要とされています。日本は比較的広いほうで、一定の距離感があることが好まれる国の一つです。

近年、こうした「他人との空間共有を避けたい」というニーズが旅行にも表れているのではないか、と私は感じています。

そのひとつが、地方の温泉旅館で増えている「露天風呂付き客室の増加」です。価格にかかわらず、そうした客室から先に予約が埋まっていく現象が顕著です。全室露天風呂付きの宿で大浴場に行くと、ほぼいつでもほかの客がいない貸切状態なので、それはそれでぜいたくに感じられるのですが、これは「他人と大浴場に入ることが小さなストレスになりつつある」ことの裏返しともいえます。最近では、温泉を訪れても大浴場に入らず、客室のシャワーだけで済ませる学生も少なくありません。

移動手段に目を移すと、東海道新幹線では、3人掛け席の中央に仕切りを設けて2人分として広く使えるようにした「S Work Pシート」が人気を集めています。2026年10月に個室シートが導入されれば、なかなか予約が取れないプラチナチケットになることが容易に想像できます。移動空間でも、プライベート感や距離感の確保が求められていることが見てとれます。

増える一棟貸しの宿

地方では一棟貸しの宿泊施設が増えています。その背景には、地方での空き家の増加や、食事を提供する飲食店や調理師の不足、そして2018年の旅館業法改正により1客室(1棟)のみでも営業許可を取得できるようになった、行政の制度的な後押しがあります。

後継者がいない古民家を長期賃借して改修し、一棟貸しを1室に見立てる分散型旅館の先駆けとなった兵庫県丹波篠山市の「集落丸山」や、鹿児島県奄美群島の伝統建築や文化を丸ごと体感できる「伝泊」といった上質な一棟貸し施設がメディアで紹介され、広く知られるようになったことも、新たな需要を生み出しました。

こうした一棟貸し需要が増加した要因には、旅行市場の世代交代と価値観の多様化があります。

1970年代から約50年にわたり旅行市場を牽引してきた団塊世代がリタイア期を迎え、代わって最多人口層となった50代以下の団塊ジュニア世代へと主役が移りました。さらに、所得格差の広がりや共働きの定着、少子化により家族のつながりが強化されるといった社会変化は、世代間や家族間での価値観の多様化を生み、価値観が異なる他者と同じ空間を共有することへのストレスを高める結果となりました。

つまり、「価値観の違うほかの観光客と適切な距離を保ちたい」というニーズの広がりが、一棟貸し宿泊施設の需要増につながったと推察できます。

「パーソナルスペースに敏感な都道府県」という調査(学習プラットフォームPreply)によると、山口県と岐阜県が第1位となり、愛知、群馬、鹿児島、島根県が続きます。マイカー通勤が主流となっている地方部が多いようです。

空き家が一棟貸しへと再生

前記の調査で第6位の島根県に、古民家を改修した一棟貸し宿泊施設を含む空き家再生で注目を浴びている温泉地があります。島根県大田市の温泉津(ゆのつ)温泉です。

かつては数軒の伝統的な温泉旅館が中心だった温泉街ですが、古民家を再生し、ゲストハウスやシェアキッチン、コインランドリーを一体化させた「WATOWA(ワトワ)」が2021年に開業したことをきっかけに、街の再生の物語が始まります。全国を旅するシェフが交替で滞在しながら食事を提供するシェアキッチンは、都会のシェフたちに地方の魅力を伝える拠点となり、移住の連鎖へとつながりました。

現在は、移住者が古民家で経営するカフェやバー、ブルワリー(小規模醸造所)が軒を連ね、空き旅館はゲストハウスに、そして空き古民家は一棟貸しの宿へと生まれ変わりました。

わずか5年間で開業した一棟貸し施設は4軒あります。日祖(ひそ)と湯里(ゆさと)という海辺の静かな集落の屋敷を再生し、北欧のサマーコテージに滞在するように、静かに暮らすように泊まる2軒の「HÏSOM(ヒソム)」。古刹「龍燈山 西念寺(さいねんじ)」の門前にあり、寺の燈(あかり)が届く宿という想いから名付けられた、愛犬も同伴宿泊が可能な「燈(ともる)」。そして、元スナックの2階を再生した「ニュー檸檬樹(れもんじゅ)」です。

それぞれの施設が、夫婦やカップル、あるいは企業研修、ペット同伴の家族、友人グループといった顧客層が明確に分けられています。最も新しい「ニュー檸檬樹」は、もともと置屋だった町家造りの木造2階建てで、昭和期に「スナック檸檬樹」として温泉街の夜を彩っていました。現在は、1階はスナックの面影を残しつつ朝食や喫茶を提供するカフェとし、奥の扉を開けたスペースは卓球場やサウナに、そして2階は1日1組限定の宿として運営する複合施設になりました。2階には、キングサイズベッド4台のほか、押し入れを改修したシングルベッド2台、さらに和室もあり、最大20名の団体宿泊に対応しています。

「ニュー檸檬樹」の外観。1階はレトロカフェ、奥にサウナ、2階は宿となっている(筆者撮影)

一棟貸しの課題

こうした一棟貸し施設には、稼働率を上げることが難しいという課題があります。そのため、室料を上げるしかありません。その結果、どうしてもパーソナルスペースを重視する現役世代のファミリーやグループがターゲットとなり、繁忙期や週末に需要が偏りやすくなります。また、地域に食事を提供する施設が少ない場合、滞在中は自炊が中心になってしまい、連泊需要を取り込みにくくなる懸念もあります。そのため、安易な参入や投資は避けるのが賢明です。

この課題を克服するためには、これまでになかった需要を創造していくしかありません。学校のフィールドワーク、地域で働く海外からのワーキングホリデー学生の滞在、お試し移住の家族など、稼働する日を増やす戦略が必要です。ただ、こうした取り組みは単独の施設では限界があり、地域全体での取り組みが必要です。

いかに地域が一体となったまちづくりを推進できるかが、一棟貸しという宿泊市場を育てていく鍵となるのです。

井門隆夫(いかど たかお)

井門隆夫(いかど たかお)

国学院大学観光まちづくり学部教授。旅行業、シンクタンクで25年勤務し、関西国際大学、高崎経済大学を経て2022年から現職。専門分野は宿泊産業論、観光マーケティング。文教大学や立教大学を含め、20期以上のゼミ生を各地でのインターンシップや国内外でのフィールドワークで育成。観光を通じて社会変革をもたらすことが目標。

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