観光客減少時のアプローチ技法を、ニュージーランドの成功事例から学ぶ

コラム「観光レジェンドからの手紙」(4)

トラベルボイスでは、ツーリズムの活性化に貢献した先人の知見を次代につなぐための企画として、シリーズコラム「観光レジェンドからの手紙」を不定期に設け、2018年6月に逝去された亜細亜大学の元教授・小林天心氏が同大学学内誌に発表した論考を、当編集部で再編集して掲載しています。

訪日客の多くは日本のよい点として、平和、安全、衛生的などの面を挙げますが、日本はそれをうまく訴求できているのでしょうか。「100%ピュア」をうたうニュージーランドもそうした点を特徴の一つとしており、2000年初頭の逆風の中、ある作戦でそれを乗り切ることができました。

シリーズ第4回目では、当時、ニュージーランド政府観光局日本支局長を担っていた小林氏の考察を紹介します。(写真:ニュージーランド  クライストチャーチ)

120年の歴史持つ総合観光機関

ニュージーランド(NZ)に国営の観光公社らしきものがつくられたのは、意外に古くて1901年のことである。当時のこの国の人口は100万人足らず。それが日本でいえば北海道から関西辺りまでの広さの国土(およそ日本の7割)にパラパラと散在していた。

したがって観光公社の役割は、そうした国民に対する福利厚生の便をとることにあった。観光地を選び出し、ホテルを建て、バスを運行し、ツアーも作った。まさしく国営の総合観光会社である。温泉地として有名なロトルアの湯治施設はじめ、現在に至る有名観光地の多くは、この公社の手によってデビューしたのである。

観光立国に踏み出した1970年代

一方、外国からの観光客は当時イギリスからが中心であり、最低6週間の船旅によってやって来た。1903年に年間5233人、という記録が残っている。のんびりした南太平洋の農業国に変化が起きたのは1973年である。それまでNZは英国への農産品供給国であり、特恵国条件で酪農産品などを買い上げてもらっていたから、十分な外貨が獲得でき、裕福な福祉国家でもあった。ところがこの年に英国がECに加盟、NZ産品は国際競争にさらされることになり、そうそうのんびりともしていられない。

農業立国の変換と言っても、そう簡単には工業や商業立国に行けない。そこに選択肢として選ばれたのが「観光立国」だったのである。幸いにしてイギリス人たちがこの地にやってきてから農業一本の160年、鉱工業にほとんど汚染されることのない緑の国土が残されていた。人口はようやく1970年に300万人を超えたばかりだった。文字通りの山紫水明に、マオリ文化という独特なアピール・ポイントもある。

日本含む5地域をメインターゲットに

というわけで、NZ政府としては隣国オーストラリアを筆頭に、英国・欧州、アメリカ、アジア全域、日本という5地域を主なターゲットとして、インバウンド観光のマーケティングに取り組むことになったのである。そして1980年代の行政改革に伴い、NZは国営だったホテル、航空会社、鉄道などを順次民営化、観光公社も90年代初めにTNZとして独立行政法人になった。

筆者が局長職にあった2004年度の数字を紹介する。NZの観光による外貨獲得高はおよそ60億ドルで第2位だった。第1位が酪農で100億ドル。3位は木材の23億ドルである。観光によるそれはGDPの9.3%、15万人の直接雇用を生んでいた。

この年、NZのGDPは日本の1.2%に過ぎない。人口はほぼ静岡県と同じ(約380万人)だったが、日本円にしておよそ60億円を外客誘致のマーケティングに投入している。人件費などの固定費はその半分ほど。そしてこの観光局予算は、好調なインバウンドの伸びに伴い年々漸増傾向にあった。

基本的に先に挙げた5地域のプロモーション予算は、当該地域からの入国者数と、調査により算出された観光各一人あたりのNZにおける消費金額を掛け合わせた、総収入額に応じ配分された。成績が良ければ予算は増額されるし、悪ければ削られる。したがって私と他4地区の局長は、つねに熾烈な競争をしていたことになる。

旅行先と季節の分散化戦略を推進

私がTNZで仕事を始めた時の基本戦略は「分散化」である。当時日本からNZへの観光の流れは、季節的に10月~3月、現地が暖かいとされる時期に集中していた。そして地域的には、オークランド ― ロトルア ― クライストチャーチ ― マウントクック ― クィーンズタウンという一本の筋のみだった。だから当面の目標は、この固定化されたシーズナリティと旅行先の分散化・多様化に置いた。

市場目標セグメントは大きな塊として、中高年・ハネムーン・教育旅行(ワーキングホリデーを含む)・家族旅行という4つ。SIT市場としては、ハイキング、スキー・スノーボード、ファーム・ホームステイ、ラグビー(観戦と合宿)、ガーデニング、フィッシング、マラソン、エコツアーの8つを選んだ。いずれもNZならではというか、国際競争力がありそうな分野であり、的を絞って営業しやすい分野である。

つぎにNZの優位特性を販促上4点に絞り込むことにした。安全・清潔・自然・NZ人、である。これらは日本人にとってとても大切な要素ばかり。とくにNZにマオリの人たちが南太平洋の彼方からカヌーで渡ってきてから1000年、白人たちが来始めてから200年。それまでは南太平洋にあってオーストラリアからも2500キロ離れ、鳥たちだけしか住んでいなかった孤島群である。

8つのテーマ街道をブランド化

地域的にはNZを南北4つずつの地域に分け、歴史、温泉、太平洋、庭園、鯨、翡翠、ペンギン、アルプス、というニックネームのNZ8街道を設定した。旅行ルートのブランド化を図ったのである。そして多くの旅行会社の企画担当者たちにこれを周知徹底、このルートと街道名を使用する新しい旅行企画に販促協力費を出したり、マスコミやガイドブックの取材も、この線に沿って実施してもらうべく誘導した。

季節的な分散化に関しては、南半球にあって日本と反対の季節になるから、9~11月は春の花、12月~2月はカウリの森、3月~5月は紅葉、6月~8月はスキーなど各種SITといったぐあいに折々の特徴と素材を組み合わせて訴求していく。つまり先の8街道と4シーズンの組み合わせにより、当面32通りのNZ旅行が出来上がる。その多様性を、念仏のように唱え続けたというわけである。

もちろん日本とNZをつなぐニュージーランド航空はじめ、カンタス航空や日本国空に対しても、この基本方針を理解し、協力してくれるように要請した。観光局、航空会社、旅行会社による三位一体のマーケティングは、基本中の基本である。

テロや感染症、戦争の打撃の中で

この戦略はかなりうまく機能し、2001年の9・11米同時多発テロ事件を皮切りとして、SARS(Severe Acute Respiratory Syndrome=重症性呼吸器症候群)、イラク戦争、鳥インフルエンザ、などに揺さぶられ続けながらも、なんとか年間17万人というラインまで日本からの送客数を伸ばしていった。

たださすがに9・11事件の時には、世界中がパニック状態となり、日本からはアメリカとは何の関係のない国々へも観光客の足が途絶えてしまった。日本からNZ行きも同様、とくに全国の修学旅行生たち6000人までもが、即キャンセルという有り様である。アメリカとNZは無関係だし、もちろんNZに何ら影響がある事件ではない。第一お隣の韓国からも含め、世界からNZへの国際旅行者数は、平気で伸び続けていたのである。よその様子を伺ってみると、日本からカナダ行きの紅葉目あて(メープル街道)ツアーも全滅だという。この客層を半年後のNZの紅葉シーズンに引っ張れるはずではなかろうか。

無い知恵を絞って出たのが、NZ首相から日本国民にあてた「平和メッセージ」というテである。新聞の全国版に、当時のヘレン・クラーク首相のNZ平和メッセージを出そう。それを梃子に全国へ営業活動を行う。NZ大使とは2人3脚で、修学旅行を予定していた学校、自治体、旅行会社などへも足を運ぶ。

首相の平和メッセージ広告展開が奏功

そこで急いで首相メッセージの文面をつくった。大使から首相府へ、TNZ本局から観光省へ、同時にこのアイデアを申請したら即OKが出た。といういきさつで、クラーク首相の写真とサイン入り、「ニュージーランドは平和です」というキャッチコピーの全面広告が、大新聞の全国版を飾ったのである。

日本における各国政府の観光宣伝としては前代未聞。「わが全国民が日本からのお客様を、心を込めておもてなしいたします、どうぞ安心してお越しください」というボディコピーが続いた。これはこれはと、後追いを図ったよその観光局もいくつかあったらしいが、結局はどこも本国からのOKが出なかったという。それもあってNZへの急落した旅行者数はV字型回復となり、ひそかに内心Vサイン。大使とも大喜びのハイタッチだった。

平和で安全、クリーンが最大の強みに

自分たちの国は平和です、と国のトップが堂々言い切る、ということはそんなにたやすいことではない。単に戦争がないと言うだけではなく、政治も、社会的に、経済的に、かなり安定していなくてはならない。美しい自然がたっぷり、水も空気もクリーンである。貧富の差、犯罪、公害などの諸問題もすくない。各種のインフラ、エネルギー問題そのほかも関係するであろう。宗教や人種問題もまた然り。

ニュージーランドはまた地理的にも、国際的平和状態を保つのに有利である。さらに気候は日本より穏やか、それでいてくっきりとした四季がある。つまりこの国は、あらゆる側面からしてもどこもが羨む「平和の諸条件」に恵まれているから、首相もさっさとゴーサインが出せた。その当時人口は400万人にまで増えていたが、コンパクトな国のサイズが有利だったことは、言うまでもない。

(初出:2005『ツーリズム・マーケティング実践』観光進化研究所、2015年3月 亜細亜大学経営学『ホスピタリティ・マネジメント学科紀要』より)


【編集部より】

小林氏は1968年から旅行会社で数々の観光マーケティングを実践。1998年から2005年までニュージーランド政府観光局の日本支局長を務めました。また北海道大学では客員教授として教鞭を取られていました。

本記事は生前、ご本人から当編集部に届いた原稿について本人およびご遺族からご承諾をいただき、当編集部で一部編集して掲載するものです。

みんなのVOICEこの記事を読んで思った意見や感想を書いてください。