【追悼】伝説の観光マーケター・小林天心氏を偲ぶ

海外旅行のカナダやオーストラリアなどで新市場を旅行会社として開拓し、ニュージーランド政府観光局の局長として旅行市場を牽引してきた、マーケター・小林天心氏が2018年6月17日に逝去されました。

トラベルボイス編集部では、海外旅行市場の開拓をおこなってきた故・小林氏の盟友であるマイルポスト社の榊原史博代表に、追悼文の執筆をお願いしました。以下に全文を原文のまま掲載します。編集部一同、小林天心さんのご冥福をお祈り申し上げます。


天心氏追悼

株式会社マイルポスト

榊原史博


晩年の大学教授やニュージーランド政府観光局長としての小林天心氏を知る人が多いだろうが、それ以前の30年にわたる旅行会社勤務時代があり、その時代を通しての飽くなき旅の追及こそが、皆が知る天心氏の存在を創り上げたファンデーションとなっている。

プレイガイドツアーの前身プレイガイドトラベル(当時・室敏明社長)に創業時代から在籍し、今日に至っても旅行会社が模索する旅行会社・商品の在り方を求め続け、商品造成・その販売の促進を実践していた。半世紀近く以前、海外旅行の黎明期に、そんな模索を始めていた。

プレイガイドツアーは異色の旅行会社だった。市場規模が200万人程度になるかならないかの時期に、海外のスキーツアーのホールセラーを開始し、カナダやアラスカなど旅行会社の介在が求められるデスティネーションに特化するビジネスを展開し、後日、南米やオーストラリア、南アフリカ、太平洋の島々に活動領域を拡げ、旅のスペシャリストが求められる旅を市場に提供し続けた。

そのコアにいて常に新しい商品を生み出す原動力になっていたのが天心氏だった。当時はSIT(Special Interest Tour)と呼ばれていたスキー、フィッシング、トレッキング、登山、アドベンチャーなどのそれぞれの分野でその道の好き者・強者を集めた陣容を社内に形成し、他の追随を許さないツアーを企画・造成して世に問うた。天心氏がそれらの人々の塊作りの中心にいた。私も好き者としてアラスカやフィッシングの担当として戦列に加えていただいた。

強者を束ねるのは会社の待遇ではなかった。情熱を捉えて形あるものにリードする天心氏の人間としてのキャパシティと理解力、卓越した創造力を持つ人と成り・生き様だった。強者揃い、社員は天心氏が夢を叶えさせてくれるとのワクワク感から参集していた。良い笑顔を持った人で、小規模エージェントの厳しい環境にあってもいつも光を感じさせるポジティブな姿勢を持ち続けていた。

部下を誘って良く飲みに行った。自宅に招いて宴をはった。取引先や航空会社などとも良く宵の時間を過ごし、旅行業界に横断的に多くの友を持っていた。人物と思われる人には躊躇なくコンタクトを取り知己を増やしていった。私もよくお供をさせていただき鶴翼を広げる付き合いを教えていただいた。比類ない人間力が大きな魅力であり包容力にあふれていた。

カナダには特別な情熱を注いだ。誰もが認めるカナダブームを創り上げた張本人であった。Tenshin、Tenshinと名前も呼びやすく、実績を伴って市場開発を実践する氏は、日本市場に関わるカナダの旅行業界人には知らぬ者がいない存在だった。カナダの夏は売れる。冬を売らねば。そして市場で海外スキーといえばカナダとの認識をつくる冬の市場を創り上げた。その当時の社員数は30名足らずだったろうか? 小さな会社ではあったものの、業界では大きな存在であった。夏、冬が売れるようになったならスローな秋を売らねば。カナダを再研究し、紅葉好きの日本人なのだからと、「メープル街道」を発案した。業界を横断してカナダの定番商品となり、大ブレークした。通年のカナダを牽引した。

集中から拡散、新しい商品・デスティネーション開発を1970年代から真摯に取り組んでいた。

オーストラリアへの取り組みも筆述しなければならない。業界が一体となり、マーケティングを確と意識した初の取り組みとなった活動展開の中心に天心氏がいた。その当時、すでに私は独立してツーリズムのマーケティングに特化する仕事を目指していて、オーストラリア政府観光局に、「蓼科セッション」と銘打ったマーケティング研究会を提案していた。天心氏はいの一番に賛同してくれ、業界の中堅賢人集めに協力してくれた。キープレイヤーの旅行会社の英知とエネルギーに溢れた賢人を集めての取り組みは、3日間に渡って蓼科高原のペンションを借り切り、日頃は競争関係にある者同士が朝から深夜まで、市場の分析、SWOT分析をし、現場で感じている消費者のニーズを確認しあい、引き出されたブランディングをベースに、共同で取り組めるプロモーション活動を語り合った。

「蓼科セッション」は1980・1990年代を通して毎年継続企画されたが、第一回を実施した当時、1982年には6万人足らずだったマーケットを1997年には81万人に拡大させ、デスティネーション拡散を促進させ、多層のセグメントを掘り起こした原動力になったことは、オーストラリアに関わった者ならば誰も疑わない事実だ。「常夏ベルト・オーストラリア」「I’m Aussie キャンペーン」「オージースマイル・キャンペーン」「感動大陸オーストラリア」など業界一丸となって手がけたプロモーション・プログラムは枚挙にいとまがなく、常にその中にあって、旗を振り続けた。業界にマーケティングの重要性の認識を広めた天心氏の功績は大きい。

市場開発のためにメディアとの連携にもいち早く取り組んだ。雑誌などの現地取材と引き換えのデスティネーション・商品紹介、TV番組の誘致・現地紹介などには積極的に取り組んだ。当時人気TV番組だった日本テレビの「11PM」のスキーやフィッシングの取材を仕掛け、私も大橋巨泉さんと何度か画面に登場させてもらった。

旅行産業が働きかける相手は人間。畢竟、関わる者がしっかりと人間であらねばならない。天心氏は自分の感覚を自信を持って大事にしていた。「私が面白くなければ、客は面白いはずがなかろう。私が評価できない旅行会社なんか、客が評価するはずがないだろう。」スタッフにはいつも創造性を要求し、策なく安価のみを追求してコピー商品作りに嵌まった旅行会社を何時も強烈に罵倒していた。「自分の首を締めてどうするつもりだ!」実に小気味の良いこき下ろし方だった。

舌禍・筆禍事件を何度も引き起こした豪傑だった。「もうちょっと先方を慮って・・・」と言われると、「知るか!言い返してみろ」の返事。舌鋒鋭く、正論を推して公論とする勢いをいつも持っていた。

表通りの真ん中を歩く人でした。旅行会社から大学教授へのそれぞれの変遷の境遇の中で、いつもサムライの風格を持つ人でした。原理・原則、正論を張る姿勢は揺るがないものだった。任ぜられれば、業界全体をも取り仕切る気概を持つ人でした。大変な読書家でした。「おい、これとこれの本は面白いで。読まなあかん」いつも何冊かの本をリストにして送ってくれた。その知見は広範囲にして深度があり、彼にして卓越した俯瞰感を持たせ、豪放磊落にして、実は緻密な作業を厭わない仕事のやり方を知る人でした。当社が請け負った市場開発の設計やデスティネーションの調査開発プロジェクトには、数回にわたって参画いただき、最強のタッグを組ませていただいた。調査集約の段階では生産的な提言に溢れ、納得のいく仕事をさせていただいた。この種の調査・研究プロジェクトでは日本で最先端を行くチームだったと今も自負している。

ラグビーをこよなく愛した天心氏でした。

河川敷での練習を見に行ったことがある。走りはお世辞にも早いとは見えなかったが、ボールを持つと他人には渡さず、決して離さず、思い切ってぶつかってはひたすら潰れるまで押していく姿を見て、天心氏らしいなと思ったものでした。

巨星墜つ。45年近くの付き合いをさせていただいた。残念である。愛惜の念に耐えない。大きな感謝と共に、安らかに眠れと祈る。


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