広域観光のセオリーを編み出した、伝説の「カナダ・メープル街道」誕生秘話 - 観光レジェンドからの手紙

コラム「観光レジェンドからの手紙」(1)

トラベルボイスでは、ツーリズムの活性化に貢献した先人の知見を次代につなぐための企画として、シリーズコラム「観光レジェンドからの手紙」を不定期に設けます。今回から数回にわたり、2018年6月に逝去された亜細亜大学の元教授・小林天心氏が同大学学内誌に発表した論考を再編したものを掲載します。

小林氏は1968年から旅行会社で数々の観光マーケティングを実践。1998年から2005年までニュージーランド政府観光局の日本支局長を務めました。また北海道大学では客員教授として教鞭を取られていました。なお、本記事は生前、ご本人から当編集部に届いた原稿について本人およびご遺族からご承諾をいただき、当編集部で一部編集して掲載するものです。


今回は、「点」の観光を「線」の観光に変える新マーケティング技法、「街道マーケティング」を編み出した理由として、「メープル街道」をつくったいきさつを書いておきたい。

「ナイアガラをアメリカから取り戻す」

1970年代のカナダは、「バンクーバーとロッキー」というコースがようやく市場に出始めた頃である。当時のカナダ太平洋航空(CP)が、「バンクーバーはアメリカへの玄関口」という広告を業界紙に打っていたくらい、カナダという国は一般になじみがなかった。

西部カナダが売れ始めたところで1970年代後半、この動きを何とかオンタリオ州にまで広げてやろうと、オンタリオ州観光局とカナダ政府観光局、CPに働きかけ、「オンタリオ・ジャンボリー」という滞在型企画を発表した。トロントに5連泊、ナイアガラ瀑布の観光や秋のマスコーカ地方における紅葉、トロントというカナダ第一の大都会滞在を楽しむ、というプランである。ナイアガラ・オン・ザ・レイク、というとても美しい小都市もある。宣伝費の支援をカナダ側の政府関係に依頼し、CPにはこの新企画用に特別運賃を用意してもらった。カナダの東中央部が、多少日本の海外旅行市場に認知されるきっかけとなった企画である。

当時ナイアガラといえば、アメリカ旅行の目玉観光地だった。ナイアガラ=アメリカ。しかし「ナイアガラの滝の水は7割以上がカナダに落ちている。ナイアガラを、アメリカからカナダに取り返そうではないか」と、カナダ政府観光局関係者を懸命に口説き、企画の応援をしてもらった。

その次に、1983年に発表したのが「メープル街道」である。当時カナダは一般的にはまだまだ夏季、6月~9月の観光地だった。これをなんとか秋にまで広げたい。地域的にも、広いカナダのオンタリオやケベック州にまで、日本からの観光コースを拡大できないだろうか。

多様さつなぐキーワードを探せ

いろいろ調べていると、オンタリオ州のパンフレットに「ヘリテージ・ハイウェイ」というコースが載っていた。オンタリオ州からケベック州へのコースだったと思うが、これでは意味がよくわからない。しかし体験上理解していたことは、ナイアガラの滝からトロント、キングストン、オタワ、モントリオール、ケベックシティまで、およそ800キロのルートには見どころがいっぱいだという事実である。

このくらいの距離なら、バス旅行で5日間ぐらいのとても素晴らしいコースが出来上がる。とくに秋、9月下旬から10月中旬にかけて、トロントの北にあるマスコーカ地方やアルゴンキン州立公園界隈では、圧倒的なメープルの紅葉が見られる。さらに首都オタワの北隣にはガティノー国立公園が、モントリオール郊外にはもう一つの紅葉名所としてローレンシャン高原があり、カナダの紅葉3大名所になっている。

こうしたことがらは、ひとつひとつを取り上げたのではパンチに欠ける。諸要素をぐっさりつなげるキーワードは何か。というわけで、何十もの単語を書き出し、並び替え、あーでもないこーでもないとアタマを使った結果、なんとか残ったのが「メープル街道」だった。メープル街道単体でも、日本から8日間ぐらいのパッケージで売れる。もう少し日程を足し、「メープル街道とカナディアンロッキー」でもいい。

観光局や航空会社巻き込む一大キャンペーン

そこで今度は、カナダ政府、オンタリオ・ケベック州両政府とCPに協力してもらい、自分の会社プレイガイドツアー(PGT)との5者による一大キャンペーンを立ち上げた。「ロッキーへの地域とシーズンの一極集中」は好ましくない。カナダ旅行を健全に拡大するためには、メープル街道こそがそのカギとなるであろう、という多少我田引水気味の論理展開だった。

そして旅行業界全体に対し、メープル街道を織り込んだ旅行企画を各社で展開するよう、CPや政府観光局に働きかけてもらうことまでした。なぜなら、このような大型のデスティネーション開発は、PGT一社の手に余ると考えたからだ。同時に、相乗効果を狙った方が一社でちまちまやるより、カナダ総需要の喚起に役立つだろうという確信があった。

そしてその通りになった。わずか数年のうちに、メープル街道は日本からのカナダ旅行の売れ筋にのし上がり、カナダ旅行のシーズンが「夏のロッキーから秋のメープル街道にシフトした」とさえ言われたくらいだった。それどころか90年代になると、メープル街道は秋の紅葉シーズン以外に、春から秋まで通しての人気コースとなり、とくに秋季においてはホテルの手配も難しいというところまでの市場性を確立したのである。メープル街道をうたい込んだ歌謡曲までつくられた。

大手各社を呼び寄せたオープン戦略

多くの人たちから、「なぜあのとき、メープル街道の商標登録をしなかったのか」と聞かれる。しかし登録なんかしていたら、メープル街道がここまで市場性を獲得することはなかったであろう。やはり大きな市場形成という意味では、中堅から大手の旅行会社の力が不可欠なのである。きっかけづくりとしての種まきも、市場全体への波及効果という点における大手各社の総合力ぬきには、大きな実を結ばせることはできなかった。

それぞれ各社の中には、いろいろなアイデアを抱えながらも、組織の中で不完全燃焼のまま、鬱屈した日々を送らざるを得ない面々が少なくないはずである。「われわれの持っている力は意志より大きい。だから事を不可能だと決め込むのは、往々にして自分自身への言い逃れなのだ」と、ロシュフコーは言った。大きな組織を動かすための、たえざる挑戦を心掛けてもらいたい。

なんと日本にも「メープル街道」が

余談だが、先日北海道のニセコ―小樽間を車で走っていたら、なんと「メープル街道」という名称と、赤いカエデのマークが書かれた道標が、えんえん続いているのを見つけた。「えっ!?」と思うではないか。これをつくった北海道の道路関係者は、せめてカナダ大使館あたりに了解を求めたのであろうか。かつてアメリカ商務省が「ディスカバー・アメリカ」というキャンペーンを張ったすぐ後、日本の国鉄はさっさと「ディスカバー・ジャパン」という大キャンペーンを展開、それはつい最近まで続けられた。このあたりになると盗作もなんのその、日本は官民ともにおおらかなものである。

このあと自分ではカナダの東海岸側、ニューブランズウィック州やノバスコシア州、それにニューファンドランド州を巻き込んだ東カナダのキャンペーンを立ち上げようと、90年代半ば関係各方面との詰めを行っていたが、結局PGTを退社せざるを得ない羽目になり、この企画は立ち消えてしまった。

残念至極である。こうして1996年までにカナダへの日本人渡航者数は63万人まで伸びて行ったが、以後目立った旅行企画の新規開発は見られず、2013年現在のそれはなんと20万人を割り込むまでの衰退ぶりとなってしまった。継続的なツーリズム・マーケティングがいかに重要かを示す一例である。

若年女性向け商品開発のきっかけに

冬季のカナダに関しては、70年代初めからスキーツアーを多く売り、PGTで圧倒的なシェアを確保していたが、上期のカナダ(夏季)と下期のそれを比較すると日本からの渡航者数は7対3。これをなんとか平準化できないだろうか。カナディアンロッキーは冬こそ一番美しい。一流ホテルも冬場は夏の半額以下になる。美しいイルミネーションの都会。これらを当時の海外旅行市場をリードしていた若い女性たちに売り込もう。このコンセプトが80年代半ば以降の「白雪姫のカナダ」である。やはり政府観光局やCPを巻き込んでの大型キャンペーンだったが、メープル街道ほどの反応とまではいかなかった。

白い雪の美しいカナダを売りたいはいいとして、それが即「白・雪・姫」となったのでは、いささか突っ込み不足だし、安易に過ぎた。ブランド開発に智恵が足りなかった、というべきなのであろう。「名正しかざればすなわち言したがわず、言したがわざれば即ち事成らず」とは論語である。このテーマは、依然カナダに残された大きなチャレンジ分野だ。

(2015年3月 亜細亜大学経営学『ホスピタリティ・マネジメント学科紀要』より)

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