日本観光振興協会 最明 仁です。
観光は、社会の価値観を映し出す鏡でもあります。本コラムでは観光が果たすべき「インクルージョン(包摂)」の役割とは何か、そして日本の観光産業が今後どう向き合うべきかを考えてみたいと思います。
※写真:デフリンピックのバスケットボール試合の様子(筆者撮影)
オーストラリア・シドニーでは、毎年2~3月にかけて性的マイノリティの祭典「ゲイ&レズビアン・マルディグラ」が開催されています。1978年に始まり、紆余曲折を経て現在の姿になりました。現在では、参加者約2万人、観客約50万人を動員し、2023年には「ワールドプライド」との同時開催で観客100万人以上を動員したと報道されています。ホテル、飲食、交通、文化イベントなど幅広い産業に経済効果が波及しています。開催時には、シドニー市内全体がレインボーカラーに染まり、企業や政府機関も積極的に参加することで「多様性の祝祭」として観光資源化されています。
私がJNTO(日本政府観光局)に出向し、シドニーで勤務していた1991~94年には、すでに世界中から多くの参加者と観客がつめかけていました。メインのパレードなどだけでなく、終了後に参加者がオーストラリア国内にでかける長期滞在の旅行について経済紙も経済効果を考察する特集記事を組んでいたほどでした。ただ、実際にはパレード参加者たちが自身の存在をアピールすることが主な目的であり、関係者だけが楽しんでいる印象も否めませんでした。沿道の観客や住民との間にも、目に見えない溝が存在していたように感じていました。
シドニーのマルディグラは、ニューヨークのストーンウォール反乱(1969年)やサンフランシスコのプライド運動の強い影響を受けていると言われています。サンフランシスコは1970年代から米国のLGBTQ運動の中心地であり、プライドパレードや公的機関による婚姻証明の発行などが世界的に注目されました。私もサンフランシスコを訪問した時、届けを出すために役所前に並ぶ同性カップルの列を目にし、強い印象を受けたことを覚えています。
両都市は、「ゲイタウン」として国際的に認知され、文化交流や観光の面で結びつきが強い都市です。特に、シドニーは南半球における「サンフランシスコ的存在」として位置づけられ、「LGBTQ+フレンドリー都市」として国際的ブランドを確立しました。観光産業にとっても、安定的な収益源となっています。
社会的な面でもサンフランシスコ同様、シドニーも「権利運動の場」から「文化・観光イベント」へと進化し、すべての人々が社会の一員として受け入れられ、排除されることなく共に生活できるようにする考え方(社会的包摂)を象徴する存在となっています。
サンフランシスコのプライド運動がシドニーのマルディグラに思想的な基盤を与え、シドニーはそれを観光資源として大規模に展開することで、文化的意義と経済的効果を両立させた成功例といえます。
DEIという経営思想と、その揺らぎ
こうした流れと並行して、米国では長い時間をかけて企業経営の思想としてDEI、すなわちDiversity(ダイバーシティ・多様性)、Equity(エクイティ・公平性)、Inclusion(インクルージョン、包括性)が定着してきました。性的マイノリティへの配慮だけでなく、人種、障がいの有無などによる差別を排除し、公平に対応する考え方で、グローバル化や働き方の多様化といった社会全体の変化も背景となってきました。
企業の認識や考え方も変化し、DEIに取り組むということは、ひとり一人の個性を尊重する労働環境づくりに取り組んでいるという姿勢を示すものになります。サービスや商品を利用する生活者からのイメージアップにもつながることから、長く続いた民主党政権の下で多くの企業が、こぞって取り組んできました。
少子高齢化と労働力の減少が問題となっている日本でも、DEIが注目されてきました。女性の社会進出やシニア層だけでなく、国籍にとらわれない多様な人材を確保することの重要さが増してきたことが理由としてあげられます。
一方で、米国では共和党トランプ二次政権が発足直後から反DEIを掲げ、経済界にさまざまな圧力をかけています。たとえば、マクドナルドは2025年末までに達成予定だった「過小評価されたグループから30%のリーダー登用」という多様性目標を撤回し、「グローバル・インクルージョン・チーム」へと再編しました。
背景には、保守派による法的・政治的な圧力や、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)への反発があります。企業は数値目標による「Diversity」よりも、柔軟で包括的な「Inclusion」へと舵を切っているのだと言われています。他にも多くの企業がDEI施策を見直し、廃止、縮小に動いています。日系企業でも米国でのDEIプログラムの廃止を宣言するところが出てきました。関係者によれば、米国で活動していくためには保守政策と上手にバランスを取らなければ、企業経営そのものが成り立たなくなる恐れがあり、苦渋の判断だったとの声が多く聞かれました。
観光分野で進む「Inclusion(包括性)」重視へのシフト
この変化は、観光の分野にも及んでいます。
2025年にシカゴで開催された米国のDMO統括団体Destinations Internationalの総会では、この「Inclusion」重視へのシフトが明確になりました。従来の「Diversity(多様性)」という言葉が前面に出ることが減り、「Inclusion(包摂)」が中心的なキーワードとして扱われるようになっています。2024年のSocial Inclusion Summitでは、「Intentional Inclusion(意図的な包摂)」をテーマに、経済成長と地域社会との信頼構築を重視する姿勢が明確に打ち出されました。米国で進行中のDEI活動の変化と密接に関係しています。
これは単なる言葉の置き換えではなく、「訪問者と地域社会の関係性」や「経済的・文化的なインパクト」を重視した、より現実的で実践的な考え方への転換だといえます。DEIのうち「Diversity」が政治的・法的な制約を受ける中で、「Inclusion」はより広範で持続可能な価値として再定義されつつあります。
この傾向は、米国だけでなく、国際的な観光・地域開発の分野にも波及し始めているようです。今後、注意深く注視していくべき事柄だと思います。
日本ではどう実装するか?
では、日本の観光産業、地域はDEIにどう取り組むべきでしょうか。
高市政権が進める外国人政策の中では、永住者・長期滞在者と、観光客への対応がオーバーツーリズムの言葉の下で混同されている印象があります。もちろん、ルール違反、マナー違反の観光客に対して毅然とした対応は必須です。しかし、基本的にはどんな背景を持った旅行者でもあたたかく迎え入れ、心地よい居場所を提供することが日本の観光産業に求められると考えます。
昨年、大阪で開催されたIGLTA(国際LGBTQ+旅行協会)世界大会や11月に東京で行われたデフリンピックを契機に、観光産業も社会的包摂の具体例を示す時がやってきています。地域住民や多様な背景を持つ人々を観光の担い手として巻き込み、地域文化や資源を活かした持続可能な観光を推進する取り組みが一層重要になるでしょう。
米国のDEI後退で、むしろ観光市場において「誰もが歓迎される場所」へのニーズが高まっていると言えます。日本はこれをチャンスと捉え、観光と多様性を結びつけた新たな価値創出に踏み出すべきではないでしょうか。
バリアフリー対応、ユニバーサルデザイン、言語対応、多様な文化背景やライフスタイルに配慮したツアー・宿泊プラン。障がいのある人、高齢者、外国語話者、LGBTQ+の人など、多様な利用者が安心して楽しめる環境づくりが求められます。
「観光は誰のものか?」を問い直し、「誰も取り残さない観光(インクルーシブ・ツーリズム)」を実践すること。実際、国際的な観光産業でも、マイノリティや社会的弱者を観光の担い手に含める試みが進んでいます。日本が全世界から観光客を受け入れ、安全で快適に過ごしていただくこと。これも観光が担う「安全保障」の一側面だと私は考えています。
