観光危機管理を「和倉の奇跡」から学ぶ、観光事業者が知っておくべき「観光BCP」とは? ―東京観光財団セミナー

インバウンド4000万人時代が現実になったいま、観光地の安心・安全は、おもてなしの前提条件となっている。特に観光客が集中する東京において、首都直下地震の発生確率は30年以内に70%と想定されており、インバウンド客の安全確保と観光地の魅力維持をいかに両立させるかは喫緊の課題だ。

東京都と東京観光財団(TCVB)は2026年1月、第4回観光経営力強化セミナー「新たな視点で災害に備える観光BCPの推進」を開催した。能登半島地震で「けが人・パニックゼロ」を実現した和倉温泉観光協会・和倉温泉旅館協同組合事務局課長の平野正樹氏が、過酷な現場で得た等身大の備えを共有。また、観光レジリエンス研究所代表の髙松正人氏が、BCPを「事業継続のための投資」として、雇用と経営を守っていくための財務・労務対応の現実的なアプローチを語った。

発災からの24時間、「和倉の奇跡」

セミナー会場に集まったのは、主に東京都内の観光事業者だ。2024年元日に起きた能登半島地震の状況はさまざまなメディアで伝えられてきたが、和倉温泉の平野氏による話はメディアが報じ切れない現場のリアルを突きつけるものだった。平野氏は「震度6強の激震に襲われた当時、和倉温泉には満室に近い宿泊客が滞在していました。高台にある避難所の想定収容人数は500名。そこへ、町民や帰省者、宿泊客を合わせた約2000名が殺到しました。でもこの極限状態にあっても地区内ではけが人やパニックは発生しなかったのです。のちに『和倉の奇跡』といわれることになります」と振り返る。

なぜ、けが人1人、パニックひとつ起きなかったのか。平野氏はその理由を、「旅館や地域住民による、マニュアルを超えた『3つの初動対応』にあったのではないか」と分析する。1つ目は、旅館の垣根を越えた迅速な誘導。土地勘のない観光客に対し、各旅館の従業員が暗闇の交差点に立ち、ライトで液状化した路面の危険箇所を照らし続け、避難所へ導いた。2つ目は旅館からの献身的な物資支援である。スタッフは倒壊リスクのある館内へ入り、布団や浴衣、乳児用の粉ミルクなどをリレー形式で搬出。暖かさと食事を即座に提供した。さらに断水でトイレが詰まると、地元青年団らが校舎裏に仮設の穴を掘り、夜通し声かけを続け、不安を食い止めた。

3つ目は安否の先にある、帰還情報の徹底周知だ。「特に旅行者は、早く帰りたいという思いが強い」(平野氏)。一般道での通行可否や新幹線の運行再開見込みといった具体的な情報を随時アナウンスし、翌日にはほぼ全ての客を安全に送り出すことができた。一方で、平野氏は組織としての限界も率直に語った。観光協会の職員も被災者であり、発災直後に現場に駆けつけられたのは当番だった平野氏だけだったという。「行政や自衛隊が機能しきれない初動は、そこに居合わせた人で回すしかない。そのとき力になるのは、普段から顔の見える関係を築いている地域コミュニティや、業者との信頼関係です」(平野氏)。

和倉温泉では、祭りをはじめとする地域の行事を通じて、旅館経営者から若手スタッフ、商店街、青年団にいたるまでが密接に関わり合っている。平野氏は「マニュアルがなくても『今何をすべきか』を自ら考え、みんなが必死に動きました。それがパニックゼロという結果につながりました」と回顧した。

「けが人・パニックゼロ」を実現した和倉温泉について語る平野氏

BCPは消失した需要を呼び戻すための投資

平野氏の経験のように、現場の即応力によって観光客の安全を確保した後に待つのは、事業そのものをいかに存続させるかという冷静な経営判断だ。髙松氏は、観光BCPの目的について「災害後できるだけ早期に事業を再開するとともに従業員の雇用を維持し、地域全体の観光復興に貢献することは、観光事業者の大切な役割」と力を込める。

また、髙松氏は、製造業などをモデルとした従来型BCPとの決定的な違いを指摘。「従来型が製品やサービスの供給を止めないことを主眼に置くのに対し、観光の本質的な脅威は、災害によって客足が途絶える需要の消失。たとえ施設が存続していても、客が来なければ事業は立ちゆかず、観光BCPは単なる防災コストではなく、ブランドと収益を守るための経営投資と考えるべき」と話す。

髙松氏が観光BCPの柱として挙げたのが、雇用と取引先の維持だ。サービス業において、人は最大のコストであると同時に、価値を生む唯一の資産といえる。髙松氏は、コロナ禍の直後、需要が回復しても清掃スタッフなどの人手が確保できず、100室あるホテルの半分も販売できなかったという機会損失が各地で見られた具体的な事例を挙げながら、警鐘を鳴らした。

売上が消失する局面で、いかに雇用と地域ネットワークを維持し続けるか。髙松氏は、判断の難しさを指摘したうえで、「有事の混乱下で適切な判断を下すことは極めて困難。最も経営が圧迫される局面において、いかに人材や取引先をつなぎとめるか。このジレンマを経営課題としてあらかじめ認識し、平常時から具体的なシミュレーションを繰り返しておくこと。その準備こそが、観光BCPの柱」と呼びかけた。

そのうえで、観光事業者の事業継続計画のポイントとして、「災害等が起きる前に、事前に事業継続計画を作っておく」、「素早い状況把握と判断」、「運転資金の確保」、「雇用維持」、「市場・顧客とのコミュニケーション」、「地域との連携、公的資金の最大活用」の6点が重要だと説いた。

観光BCPの浸透を進める観光レジリエンス研究所代表の髙松氏

「筋肉が覚える」までトレーニングと地域連携

セミナーでは、平野氏と髙松氏のトークセッションもおこなわれた。髙松氏は具体的に、「1分間訓練」の習慣化を提言。始業時のブリーフィングに10秒の「シェイクアウト」(まず低く、頭を守り、動かない)を組み込み、これを毎日繰り返すというものだ。「スタッフの筋肉に安全行動を覚えさせる。この動きは、言葉の通じないインバウンド客に対しても有効」と説明した。

また、髙松氏は、組織のレジリエンスを高めるうえで、現場への権限委譲の重要性についても言及。経営トップには、「災害への備えを雇用と地域を守るための投資であると決断する覚悟が求められる」としたうえで、現場スタッフが指示を待たなければ動けない状況を避け、自らの判断でBCPを実行し、客の安全確保のための行動ができる体制を平時から作っておくことが「不測の事態において決定的な差となる」と語った。

トークセッションでは、個々の施設を超えた地域全体での備えについても議論が及んだ。髙松氏は、平時は美しい観光動線として機能し、有事には迷わない避難路へと姿を変えるような、ハードとソフトが一体化したまちづくりの視点を提示。日常の中に安全を溶け込ませることが、観光地としての選ばれる安全というブランディングに直結すると話した。これを受け、平野氏も地域一丸となった備えの重要性を強調。旅館だけでなく商店街や青年団も含めた地域のつながりがあったからこそ、暗闇の中でもパニックを防ぎ、客を安全に導くことができたと振り返った。和倉温泉では現在、こうした現場の実感を反映させる形で、地域一帯となった「まちまるごとBCP」の策定を具体的に進めている。

和倉温泉が示した現場の絆と、経営者に求められる戦略的な投資。この二つがかみ合ったとき、東京をはじめとした日本の観光地は、不測の事態をも乗り越えて旅行者を惹きつける強靭さを手に入れるはずだ。

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