ドイツの「ロマンチック街道」が成功した理由

日本旅行業協会(JATA)の発表資料で振り返る「海外渡航自由化50年の歴史」。第4回は、外国の政府観光局によるデスティネーション開発と、1970年代に創刊された女性誌「anan(アンアン)」、「non-no(ノンノ)」がもたらした、新しい旅のスタイルについて。今も絶大な人気を誇るヒット商品を生み出し、日本の旅行市場のマーケティングに大きな影響を与えた(画像はJALサイトからキャプチャー)。

▼1960年代後半から、海外から日本市場に観光局の進出ラッシュ

「non-no」のロマンチック街道特集が大ヒット

ドイツ観光局サイトより(クリックでリンク)

順調な日本人の海外旅行者数の増加にあわせ、1960年代後半から外国の政府観光局が日本に事務所を開設し、日本市場向けのデスティネーション開発と観光ピーアールに乗り出した。1974年までに30以上の観光局がオープンしており、同年だけでも3月にマレーシア観光開発公社、5月にベルギー政府観光局、7月にオーストリア観光局、9月にスペイン政府観光局、11月にはドイツ観光局が東京事務所を開設している。

各国観光局が展開した様々なピーアールのなかで、最も注目されたものといえばドイツ観光局の「ロマンチック街道」プロモーション。東京事務所の準備段階だった1974年2月からドイツ観光局に勤務していた坂田史男氏(元マーケティング局長)によると、ドイツは当初、ヨーロッパの中で日本進出に後塵を拝したうえ、硬いイメージで敬遠され、セールスに行ってもなかなか相手にしてもらえなかったという。

そこで、欧米の旅行者に人気の高いロマンチック街道に焦点を当て、数人の記者を取材に招待した。すると「このルートは女性に適している」と太鼓判を押された。なかでも「non-no」の1976年新春特大号に展開した、22ページのカラー特集は大反響。「写真家に満足のいく撮影をしてもらうため、旅程表なしの自由取材旅行とし、自ら車を運転して案内しました」(坂田氏)との努力も実り、その後ロマンチック街道はすべてのホールセーラーがツアーに組み込むようになり、テレビでも取り上げられるようになった。

この成功を受け、ドイツ観光局では「エリカ街道」、「メルヘン街道」、「古城街道」などを日本で紹介。各国の「街道もの」観光キャンペーンのはしりとなった。現在では海外旅行のみならず、国内、訪日旅行などで広域連携による観光プロモーションで同様の手法が採用されるなど、このコンセプトが受け継がれている。


▼女性誌が旅をファッショナブルな印象に、アンノン族が登場

1970年の国鉄「ディスカバー・ジャパン」とともに「女性の旅」がブームに

マガジンハウス社サイトより創刊号のアーカイブ(クリックでリンク)

1970年創刊の「anan」、1971年創刊の「non-no」の爆発的な人気は、“アンノン族”という社会現象まで巻き起こした。ファッションや旅行の最新情報が掲載されたこれらの雑誌を小脇に抱え、軽やかに国内を旅行する女性たちの姿は、旅にファッショナブルな印象を植え付けたといえる。

これと同時期の1970年には、国鉄が「ディスカバー・ジャパン・キャンペーン」を展開。全国の城下町や歴史的な街並みが注目されるなか、「anan」、「non-no」で倉敷や清里などの美しい風景が特集されると、若年女性の一人旅やグループ旅行がブームとなり、新しい旅のスタイルとして定着していった。1973年にはJTB出版事業局が若年女性層を意識し、「見る、食べる、遊ぶ」を切り口にした情報誌「るるぶ」を創刊。1970年代に広がった国内旅行の個人旅行化が、海外旅行のFIT拡大に繋がっていくことになる。

▼YouTube:1970 国鉄 DISCOVER JAPAN【動画】

▼オイルショックを境に「時間消費型」の旅に変化

1977年には日本人の海外旅行者が315万人に

高度成長期において、日本人の旅行は、支出に重点を置いた「所得消費型」だった。しかし、1977年版の観光白書ではオイルショック以降の変化を指摘。1974年以来、実質所得が伸び悩み、消費支出が停滞するなか、週休2日制や制度的夏期休暇など自由時間が増大。1回当たりの旅行支出の低減化が進み、レジャー支出の特性として「時間消費型」に変化したとする。

なお、オイルショックの影響で海外旅行者数は1974年に前年比2.0%増の233万人、1975年は5.6%増の247万人と1ケタ台の成長にとどまったが、1976年には15.6%増の285万人に成長スピードが回復。1977年には10.5%増で315万人となり、初の300万人台となった。

(トラベルボイス編集部)

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