女性添乗員が登場した1970年代、訪日外国人は約70万人 ―海外渡航自由化50年の歴史を読み解く(3)

日本旅行業協会(JATA)の発表資料を基に振り返る、海外渡航自由化50年の歴史・第3回は、海外旅行が拡大した1970年代にすでに形成されていた現在の旅行の業界構造や旅行マーケットについて(画像はJALサイトからキャプチャー)。

旅行業は、約40年も前から、多くの女性が海外に飛び立つ華やかな業界。この点では、多くの業界人が誇りを感じるだろう。一方で、女性の雇用環境の改善や旅行代金のシーズナリティ解消、訪日旅行者の誘致など現在課題となっている取り組みは、すでにこの時代からその必要性の兆候が見えていたこともうかがえる。今後の海外旅行の歴史を築いていくものとして、この点も逃さずに見ていきたい。


▼1972年、近畿日本ツーリストが女性添乗員を起用

女性出国者の大幅増加で

近畿日本ツーリストでは1972年2月に販売を開始した「ホリデイ」で、契約社員の女性添乗員を「ホリデイガール」として起用し、ツアーに同行させた。海外旅行の一般募集のパッケージツアーが登場し、従来の団体旅行よりも女性の参加が増加するようになったため、「女性のお客様が旅行中に困った時に、男性の添乗員では相談できないと考えた」(当時の近畿日本ツーリスト外国部販売課長・加藤直日子氏)からだ。

団体旅行の時代は男性セールスマンが営業した旅行に自らが添乗するため、添乗員は男性のイメージが強かった。そのため、初めの頃は空港での顔を合わせ時に『女で大丈夫か?』と心配する声も聞こえてきたという。

1964年に5万人未満だった女性の出国者数は、1972年に30万人超と6倍以上に伸びた。出国者の女性比率は1964年の男性7:女性3から、2012年には5.5:4.5とほぼ拮抗するまでに高まった。

加藤氏は、「熟年層の女性が海外へ出かけている今の状況は、1970年代の初めに活躍した女性添乗員がその礎を築いたといえるのではないか。欧州方面などでは女性中心の添乗員が果たす役割は依然として大きく、海外旅行の大衆化に貢献してきたことを実感させられる」とも述べている。


▼海外旅行の大衆化で「

年末年始の海外旅行」が定着

海外旅行者数が大衆化した1970年代。1976年版の「観光白書」には「正月休みにおける海外旅行が生活の中に定着してきた」との分析が記載された。

観光白書によると、1975年の海外旅行者数は前年比5.6%増の246万6326人だが、1975年の12月26日~1976年1月4日までに羽田空港から出国した日本人旅行者数は、前年比14%増の10万人超に拡大。年末年始の1日当たり出国者数は年間平均の50%以上で、これまでのピークシーズンの8月の平均を凌ぐまでになったという。


▼1970年代、日本人のレジャー旅行者数が8割に

訪日外国人70万人で、外客誘致の重要性を指摘

1964年に認められた観光目的の渡航での外貨持出し制限額は、年に1度500ドルから1969年4月に700ドル、1971年に3000ドルに増加し、1972年11月に制限が撤廃された(翌年に制限復活)。この流れの中で1969年には観光旅行者数が業務渡航者数を逆転。1973年~1975年の3年間で、全海外渡航者数に占める観光旅行者数の割合が80%以上を占めるようになった(1977年版「通商白書」)。

また、観光渡航者全体に占めるリピーターの割合も、1975年には40%を超えた。1970年から発行された数次旅券によるもので、それ以降、リピーター数は漸増。海外旅行者数を押し上げる一助となった。


1977年版の「通商白書」ではまた、観光旅行者数の増加について、旅行収支が1969年を境に赤字へ転化し、その後も赤字幅を急速に拡大させる結果となったとも指摘している。海外旅行者数が246万人となった1975年の訪日外国人旅行は70万人で、日本人出国者の3分の1以下の規模だ。

このことも旅行収支の赤字を招いた一因としており、「通商白書」では「旅行収支を改善するために来訪外客数の増大を図らなければならない」と記載。この時代にすでに、以下の4点を挙げ、訪日客誘致の必要性を訴えていた。

  1. 海外観光宣伝活動の促進
  2. 観光に関する国際的協力体制の充実
  3. 国際会議・行事の誘致促進
  4. 外国人旅行者の受け入れ態勢整備

情報提供:日本旅行業協会(JATA)

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